--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:--  |  スポンサー広告  |  EDIT  |  Top↑

2009.08.15 (Sat)

終戦記念日に寄せて2009

うだるような暑さの中、祖父母の墓参りを済ませ、山のふもとに雄大な琵琶湖を望みながら頬をかすめる風に心地いいと感じた瞬間、ふと思い出す。

ここに眠っているのは父方の祖父母であり、ぼくの名字のルーツとなった家でもある。
ぼくの父と母は離婚しており、今では父方の親戚とはすっかり縁遠くなってしまったが、それでもぼくの中に流れる血はこの場所で眠る祖父母から確かに受け継いだものでもあり、彼らが生きなければ当然ぼくも生まれてはいなかった。
奇しくも今年の夏は、ぼくにとって音楽スタジオを構え転機となる夏でもあり、その看板の中に祖父母から受け継いだ名字が踊っている。
今年の墓参りはいつもより念入りにしておこう、そう考えながら、普段絶対に吸うことのない古い銘柄のタバコに火を付けた。

ぼくの祖父は終戦時は満州にいたそうだ。
「そうだ」という伝聞で書いたのは、祖父の生前、ぼくは戦争についての知識も興味も何一つ持っておらず、また祖父の方から話を聞かされることもなかったからだ。
祖母からは「おじいちゃんは昔、鉄砲で撃たれてな、弾の痕が残っとるんよ」という話は聞かされてたことはあるが、実際に見たことはないし、鉄砲で撃たれたなどという非現実的な話は、ぼくにとってはまったく関係のない世界、映画のスクリーンの中での架空の世界にしか思えなかった。
中学の理科の先生がかなりの年配の方で、授業の合間によくシベリア抑留時の話を聞かせてもらっていたが、シベリアという地と満州という地がぼくの中で結びついたのは、中学を卒業してずっと後になってからだ。

祖父も理科の先生も、命のあるうちに8月15日を迎えた。
ぼくが幼い頃我侭を通そうとすると、母が決まって口にする文句が「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という意味の分からない呪文のような言葉であったという話は以前にもしたことと思う。
ぼくが意味を尋ねると、母は少しむっとした様子で「我慢しなさいってこと!」と一蹴していたが、どういうわけがこの呪文のような言葉は、その後ずっとぼくの心の中である一定の位置に収まっており、いや、鎮座していたという方が正しいであろうか、よく分からないけれど、我慢しなければならないことがあるんだという子供ながらの精一杯の哲学となっていた。




今から64年前の今日、日本は戦争に負けた。

それから遡ること1週間、ヒロシマとナガサキに人類史上初めてとなる原子爆弾が投下され、一瞬にして22万人近い無実の尊い命が奪われた。
ほんの僅かながら核物理学にクビを突っ込んだだけのぼくにでも、この兵器が如何に残虐で恐ろしいものであるかは理解できるし、アメリカの世論がいかに「原爆は戦争終結に必要なものであった」という風潮に傾こうと、到底許しがたい人類史上最悪のホロコーストであるとぼくは思っている。
村山元首相の談話を借りるならば、先の戦争は我が国の国策の誤りであり侵略戦争であったとなるし、またこの見解は、現在の日本政府の公式な見解ともなっている。
中国や東南アジアを始めとして、周辺諸国の国民の方々が、今なお日本に対して強い反日感情を抱いていることはぼくを始め皆さんもよくご存知であろうし、そうした現状を引き起こした先の戦争については日本国民として申し訳ない気持ちで一杯でもある。
しかしながら、炎と瓦礫の中で死んでいった22万もの罪無き人々、敵艦に体当たりしていった多くの若者、敵の銃弾の雨の中に万歳しながら突撃していった死んでいった人々、そしてあの戦争で命を落としていった250万の人々が忘れられていいはずもない。

ぼくがこうして毎年8月15日にしつこいぐらいに手記を残すのは、いくつかわけがある。
一つはもちろん、今の平和の礎として命を落としていった人々を忘れないために、そしてもう一つは、この平和な社会で生きることを当たり前と思わないように自分自身を戒めるためだ。
そしてもう一つ、今を苦しみながら、悩みながら生きている人に「生かされている」ことを実感して欲しいがためだ。

正直に話すと、ぼくと戦争との初めての出会いはコンピュータゲームのシュミレーションゲームであった。
大和や武蔵といった戦艦や、零戦を操りながら敵をやっつけ、領土を拡大していく。
しかしゲームの中であるが故、自分は痛みも悲しみも感じず、誰も死なず、誰も殺さない。
ただ敵を撃破し覇を唱えることを目標とし、敵艦を撃沈していく様はまさに爽快の一言に尽きる。
けれど、そうして遊んでいるうちに実際の大和はどういうものであったか、本当の零戦の戦いとはどのようなものであったかが知りたくなり、少しずつ戦史を紐解いていった。
そこでぼくが目の当たりにしたものは、自分の想像を遥かに超えた悲しくも理不尽な物語りの数々であった。

幼い子と妻を残し敵艦に体当たりしていった人、降伏を禁じられ手榴弾を抱いて自決していった人々、ペンを銃に持ち替え志半ばで戦場に散っていった多くの若者。
突然の閃光に体中の皮膚が焼けただれ、水を求めてのたうち回る人々、焼夷弾による絨毯爆撃によって家も家族も焼かれた人々。
彼ら、彼女らは一体なんのために死んでいったのか。そして何故死ななければならなかったのか。
それを今一度問い、自分の中で答えをかみ締める日、それがぼくにとっての8月15日でもある。

我々に課された使命は、今を生き抜くことであるとぼくは思っている。
齢15にして戦場に散っていった少年は、どれほど生きたかったことだろう。
妻のお腹にまだ見ぬ子を残して銃弾の中に突撃していった父は、どれほど子供の顔を見たかったことであろう。

確かに今の社会も平穏無事というわけではないし、今を生きる我々にとっても毎日は戦いの様相でもある。
悩むことばかり、次から次へと押し寄せ、孤独を感じ、未来が見えず、今やっていることに自信が持てないことが多々あると思う。
けれど、今ぼくたちはそれでも生きている。
いや、この国を憂い、未来を案じ、命をかけて守ろうとした250万の人々の血と涙の上にぼくたちは生かされている。

お父さんとお母さんから生まれてきたぼくら。
そのお父さんとお母さんを守るために戦ったおじいちゃん、おばあちゃん、ひいおじいちゃんやひいおばあちゃん。
この国の平和は偉大な先人の血と涙を想いを元素として成り立ち、その元素からぼくらは成り立っている。
今の時代、焼夷弾が降ってくることも、空襲警報に怯えることもないけれど、せめて1年のうちこの日だけは、今日だけは、ぼくたちのために命を賭けて戦い、そして散っていった英霊の想いに、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と語られる玉音放送を聴きながらひっそりと耳を傾けたいと思う。


鉄血勤皇隊 豊里陳雄命
昭和二十五年五月二十八日
沖縄本島兼城村第六十二野戦病院にて戦傷死
沖縄県立第一中学校三年 十五歳


母上様に告ぐ

 お母さん、首里の里もたうとう戰の庭と化しまして、自分等も鉄血勤皇隊をして軍服姿に身を固め、英米撃滅に邁進したのであります。
 沖縄の戰場も、何時かは勝ち戰の時期が来るのですから、母上様には御體を大切にされまして、勝ち戰を待つて居て下さい。
 自分の子とは、如何なる時にも御心配しないで下さい。そして、小生を御國の為に働かして下さい。自分も良き死場所を見つけて、御國に御奉公するつもりです。

お母さん、自分の働きぶりを見てください。
九段の御社で、母上様さやうなら。
散るべきときに散つてこそ
男と生まれし甲斐はありけり

豊里陳雄(英霊の言乃葉集より)


海軍少佐 宮澤幸光命
神風特別攻撃隊代十九金剛隊
昭和二十年一月六日比島にて戦死
北海道第二師範学校
海軍第十三期飛行科予備学生
北海道桧山郡江差町出身 二十三歳


お父上様、お母上様、益々御達者でお暮らしのことと存じます。幸光は闘魂いよゝ元気旺盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖國で二十四歳を迎へる事にしました。靖國神社の餅は大きいですからね。同封の写真は猛訓練時、下中尉に写して戴いたのです。眼光を見てください。この拳を見てください。
 父様、母様は日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前に沢山御馳走をあげてください。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の想ひ出話をするのも間近でせう。靖國神社ではまた甲板士官でもして大いに張切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知つても決して泣いてはなりません。靖國で待つてゐます。きつと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が死んでしまふ。否日本国が大変なことになる。幸光は誰にも負けずきつとやります。

(英霊の言乃葉集より)
スポンサーサイト
00:04  |  コラム  |  EDIT  |  Top↑

2007.11.22 (Thu)

高台寺に見る美の本質

先日、高台寺へお邪魔してきた折、やっぱり日本の美っていいなぁーとあらためて思ったので、久しぶりにコラムとしてまとめてみました。



晩秋。
ここ京都が、一年のうちでもっとも趣ある佇まいを見せる季節。

人によって好きな季節はそれぞれだろうけど、僕は断然秋が好き。
静かな中に一抹の侘しさが内包されていて、あまり活発でない僕にとってはまさにベスト。
長い冬を前にした一瞬の煌きっていうのかな。
一日で例えると、夕日が沈む直前の、あの切ないまでの美しさってのがまさに秋でしょ。
どうも、そういったどこか「暗さ」のある美しさに惹かれるんだなぁ。
のんびり鴨川のほとりに腰掛けて空を眺めたり、お気に入りの本を持って稲荷大社の境内の中、僕の秘密基地で半日過ごしたり、そういうスローな時間の流れを楽しめるのも、まさに秋ならではの醍醐味。

さて、秋と言えば言わずもがな紅葉の季節。
これを抜きで秋を語ることなんてできないわけで、早速行って参りました。

例年、恒例行事のようにお邪魔する場所はいくつかあるけれど、その中の一つに高台寺がある。
熱心な歴史ファンにとったら、秀吉の正室ねね(北政所)の墓所として有名なこのお寺。
すぐそばにある清水寺ほど規模は大きくないけれど、境内にある臥龍池(がりょうち)に映り込む紅葉の赤が格別で、まさに異世界への扉なんて洒落た言葉がしっくりくる。
僕がここを訪れたのは確か大学生の時だったけれど、その時受けた衝撃は今でも鮮明に覚えてる。
「庭」っていうごく限られた空間の中に、こんなスケールの大きな美を詰め込めるんだ!
生意気にもそんな風に感じたっけ。
もしかすると、もっと漠然とした感動だっかもしれない。
でもその衝撃が、後の僕の音楽観に大きな影響を与えることになったのね。

でも何故、僅か十数平方メートルの空間に、無限を感じらせる宇宙を作り出すことができるんだろう。

僕が学生時代を過ごしたウィーンの街にも「美しい」と言われるものはたくさんある。
例えばシェーンブルン宮殿。
ハプスブルグ家の夏の離宮、つまり別荘としてウィーン郊外に建てられた広大な宮殿。
ハプスブルグ家?なにそれ?って方には、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリザベートって名前を出した方が分かりやすいかな。
とにかくこの人たちは、時代は違えどもみんなハプスブルグ家の人々。

さて、このシェーンブルン宮殿、なにがすごいかってまずとてつもなく広い。
まぁとにかく広い。
宮殿の建物部分だけを見ても幅180m。部屋数は1,441室。
建物は全面、淡い黄色に塗られていてとにかくよく目立つ。
この黄色、マリア・テレジア・イエローと呼ばれていて、一般のガイドブックなんかには彼女が好んだ色だからって説明が成されている。
けれど事実は少し違っていて、本当は金色に塗りたかったけれど、財政的な理由からそれが叶わず致し方なく金色に近い黄色を選んだってのが正解。
建物の前後には広大な庭園が広がっていて、よく手入れされ造形された植木がアーチ状に連なり、壁のように四角く整備された植木は、文字通り壁の役割として庭園内を機能的に区切っている。
宮殿内は、まさに映画「マリー・アントワネット」の世界そのもので、豪華絢爛な装飾品、きわめて希少価値の高い家具や食器、女性ならば一度は憧れるであろう「お姫様」の世界。
大きなパニエとかつらで盛装した王族や貴族が、たくさんの召使を連れて真っ赤な絨毯の上と粛々としながらも凛とした面持ちで歩いてくる映像が、生き生きと目に浮かぶ。

ちなみにここシェーンブルン宮殿、オーストリアの中ではウィーン国立歌劇場と並んで、もっとも重要な観光資源で、年間入場者数は670万人にも達する。
つまりはドル箱。
もちろん僕も幾度となく訪れたし、天気のいい日は庭園の一番端、グロリエッテと呼ばれる丘の上で楽譜を広げて一日過ごしたこともある。

けれども、このシェーンブルン宮殿、僕はいまいち好きになれない。
こんなにも重厚な歴史と事件を見つめてきた遺産だし、年間700万人近くの人が訪れる名所なんだけれど、どうしてかこの場所を心底美しいと思うことができないの。
疲れる。
僕が日本人であるが故、もしくは性格上の問題というのも多分にあると思うけれど、どうもそれだけで切り捨ててしまうにはどこかしこりが残る感がある。
それに比べ、高台寺の僅かなスペースに作り出された美を何十倍にも愛しく思うのは何故だろう。

広大な敷地、いやキャンパスに贅の限りを尽くして描かれたシェーンブルン絵画。
僅かなスペースに、そこにあったもの、ありきたりのものだけで書き付けられた高台寺絵巻。

これら二者の決定的な違い。
それはすなわち「自然を殺しているか生かしているか」に尽きる。
ごく単純なこの言葉が、すべての美に於いて最重要なキーワードであり、同時に計り知れない深さと意味を持ち合わせていることに気が付いたのは、僕がウィーンを離れてからずっと後のこと。

例えば、音楽にはリタルダンドという奏法がある。
学校の音楽の授業では「だんだん遅く」と習うこの奏法、曲が終わる少し前や、一つの段落が終わって、新しい部分に入る前の橋渡しとして頻繁に使われる。
よく似たものは他にもたくさんあって、クレッシェンド(だんだん強く)、アッチェレランド(だんだん速く)なんかも頻繁に使われる。
もう少し立ち入って触れれば、だんだん遅くのこの「だんだん」ってのも様々で、ほぼ急激に近い具合で速度を落とすこともあれば、逆にほとんど分からないほどに速度を落としていくこともある。
けれども、どういった場合に使われようとも、これらの奏法には絶対に忘れてはいけない必須条件があって、それがつまり「自然」であることだと僕は思ってる。
自然であると言うと、とっても漠然としていて分かりにくいのだけれど、こういうと分かりやすいかな。

「物理的に自然であること」

自転車で道を走っているとする。
急な下り坂ではスピードがあがり、平坦な道では惰性で走る。
緩い登り坂ではペダルを少し強く踏み込んで、急な登りでは思いっきりペダルを踏み込む。
頂上手前で自転車は止まりそうになる。つまり速度が落ちる。
けれどペダルは渾身の力で踏み込んでいる。
頂上に到達すると突然視界が開けて、眼下には美しい景色が広がる。

そういった物理的な運動、それに必要なエネルギーというものを、すべてのクレッシェンドやリタルダンドに投影して初めて、そこに自然で美しい音楽の流れというものが出来上がる。
歌う際の呼吸には、まるで寄せては返す波のような自然の流れが必要だと僕はよく教えてる。
自然に無理なく吸った息を、決して加工することなく、止めることなく自然な流れに則って吐き出す。

地球の自転、潮の満ち引き、ものが落ちる、転がる、これら重力に支配されたものを始めとして、生まれる、死んでいく、愛する、感動するといった心と体に課せられた運命に至るまで、そういった自然の流れを決して殺さない、逆らわない。
自然を感じ、自然と共に生き、自然を自ら生み出すものに注意深く、さらには畏怖の念を持って投影させていく。

人間が自らの手で半ば強引に作り出そうとした美。
そして、あるがままを生かし、自然に逆らわず生み出された美。

美というものが相対的である以上、どちらが正しい、どちらが本当の美だと断ずること決してできないし、僕自身、高層ビルの屋上から眺める夜景や、これからの季節だと街の至るところで見るであろう、クリスマスのイルミネーションなんかも綺麗だなーって思う。
けれども、美の本質に迫ろうとすればするほど、人工的な美には常に空虚さが見え隠れするようになり、高台寺の臥龍池に映り込む紅葉のように、素朴であっても自然なままで生み出された美を希求するようになるのは、果たして僕だけかしら。

18:42  |  コラム  |  EDIT  |  Top↑

2006.10.09 (Mon)

靖国問題

安倍首相の初の大仕事、日中首脳会談が行われましたね。
内容はもちろん北朝鮮の核実験問題と靖国問題が中心。

北朝鮮の核実験問題は日中のみならず、世界各国も憂慮の念を抱いているから双方の言い分は一致するけれど、やっかいなのは、やはり靖国問題。
ちょうどいい機会だから、僕なりにもう一度整理して考えてみたい。

靖国神社。東京千代田区にある神社で、近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、日本のために為に命を捧げた戦没者が祀られている。
具体的に言うと、黒船来航以後に、国のために戦い、命を落としていった人々。
この「国のため」ってのが一つのネックで、例えば明治維新に貢献した坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作、中岡慎太郎らは祀られてるけど、旧幕府側にあった新撰組は、誰一人祀られてない。
明治時代の著名な軍人、乃木希典や東郷平八郎も、戦争で亡くなったわけじゃないから祀られてない。
そういった細かい規定もある。

さて、この靖国神社は「国の為にに斃れていった英霊を祀る」から、当然、太平洋戦争の戦没者、213万余りの霊も祀られてる。
現在の平和に感謝し、その礎となった多くの人々を祈りを捧げるため、毎年多くの人が靖国神社を訪れる。
これはとてもいい。問題になるどころか、この国に生きる人間として当然のことだとも思う。

では、靖国問題と言われるものは、一体何なのか。
それは大きく分けて2つ。
一つは、政府要人が参拝することによって、憲法に定められた政教分離に反する恐れがあること。
靖国神社は神社、神道だから、国が公式にここに参拝するのはおかしいと。
そしてもう一つは、これが大きいのだけれど、A級戦犯の合祀問題。
つまり、日本を戦争に導いた張本人とされる軍人が祀ってある神社に、政府が参拝するということは、彼らを崇拝し、さらには先の戦争そのものを正当化する行為ではないかと。
大きくわけてこの2点。

どちらもとても重要な問題だけど、今日は対中国問題で靖国論だから、政教分離問題はスルー。
これは基本的に日本国内での問題だから。あと、紙面の都合もあるけど。
今日はこのA級戦犯の合祀問題についてのみ。
◆     ◆

そもそもA級戦犯って何?
具体的に言うと、終戦後、戦勝国主導で行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)によって戦争犯罪人とされた人々のことで、28名が起訴。
7人が絞首刑にされ、16名が終身刑を言い渡されたのね。
で、死刑になった7名や、病死、獄死した7名、計14名が靖国神社に他の英霊と一緒に祀られてるの。
この14名のことでずっとモメてる。

とりあえず根深い、だからずっと議論されるんだけど、ゆっくり紐解いてみようかと。
まず、日本側の見解。
戦前、戦中に行った日本の軍事行為は「侵略」「植民地支配」である。
うん、そうね。残念だけど、そう言わざるを得ない。
これは村山政権下の閣議決定で出された政府の公式見解。いわいる村山談話。
小泉さんも、今の安倍さんもこの見解を踏襲してる。
こうして、私が悪かった、すまないことをしたと公式に発表することで、侵略を受けた当事者である中国との関係は比較的良好だった。

ところが、小泉さんが総理になった際の公約は「8月15日靖国神社公式参拝」。
これに中国が怒った。もちろんこの時が始めてじゃないけど。

「靖国神社には、我々の国を侵略したやつらが祀ってある。そんなとこへ参拝するとは何事か!先の戦争は間違っていたという謝罪は嘘だったのか!」という具合。

小泉さんは、当然と言われればそれまでだけど、強い愛国心の人。
戦争に関連した資料館を視察して涙を流したりできる人だし。
愛読書は「ああ、同期の桜」(海軍飛行予備学生第14期会編)でしょ。
さらに、尊敬する人物は吉田松陰。
松陰といえば、幕末の混迷期に、のちの明治維新の立役者となる人物を輩出した松下村塾の主宰者で教育者。
教え子に、木戸孝允・高杉晋作・伊藤博文・山県有朋、そして時を経て小泉純一郎。
安政の大獄で幕府によって捕らえられて、僅か29歳で斬首されたけど、辞世の句がすごい。
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

オレはここで死ぬが、国を想い憂う魂だけはここに置いていこう、か。
つまり、小泉さんの中にもそういう思想が流れている。総理大臣として当然かもしれないけれど。
で、そんな小泉さんだから、国を想い、守るために散っていった220万もの英霊に対しては、最大限の哀悼の意と感謝を捧げたかったんだろうね。
それが8月15日、靖国神社公式参拝っていう形の公約に現れてる。
一国の首相としては、まさに大きな選択だったと思う。
政教分離の議論や、当然、中国と始めとする侵略を受けた各国からの強い反発は目に見えてるけれど、それでも、人間として、国を愛する一人の男として、松陰の掲げた大和魂を残したかった。
で、最後の最後、公約通り8月15日の靖国参拝を実現させた。
僕個人としては、小泉さんの15日参拝はとても嬉しかった。ああ、この人は本当に日本を愛してくれてる人なんだ、って。
でも、僕がもし中国人だったら、きっと怒ってると思う。
とりあえずざっとこれが、日本側の立場。

中国はこれと正反対。
先の大戦を過ちだったとする以上、その首謀者が祀ってある神社に参拝することは絶対に許せないと。
具体的に言うと東京裁判で絞首刑になった14名のことね。

その怒りを交わすために、三木武夫元首相は「首相としてではなく、個人としての参拝」という発言をしちゃった。
これがまた議論になった。一つは、私人として参拝すると言い切ってしまったために、それまで隔年で参拝されていた昭和天皇が、それ以後参拝できなくなってしまったこと。
天皇は日本国民の統合の象徴である極めつけの公である以上、「私」って概念はないから。
でもこれはちょっとはっきりしない。

三木元首相の参拝がこの年の8月15日。1975年ね。
昭和天皇が最後に参拝されたのが、この3ヵ月後の11月21日。
つまり三木元首相の「私人参拝発言」の直後に天皇が参拝されているから、私人発言が以後の参拝取りやめの直接の原因になったとはちょっと考えにくい。

一旦、この問題は置いておいて、ほどなくして、大事件が起こったのね。
実は、終戦後ずーっとA級戦犯は靖国神社に祀られてなかったの。
それが終戦後33年経って、つまり1978年になって靖国神社側が突如、A級戦犯を合祀した。
つまり、靖国問題ってのは、終戦から33年の間は、それなりの議論はされてきたけれど、1978年のA級戦犯合祀をきっかけに表面化してきたとも言える。

実際、それまでにも中国側はちらほらと政府の参拝に対して難色を示してはいたけど、今ほど顕著ではなかった。
さらには、最近ニュースで大きく取り上げられたように、先日見つかったメモによると天皇もA級戦犯の合祀に不快感を示されていたよう。
「私は、或る時に、A級戦犯が合祀され、その上、松岡、白取までもが。
~中略~私はあれ以来参拝をしていない。それが私の心だ」と。
メモの信憑性は未だ議論のさなかだけど、天皇が参拝されなくなった要因はここにあるといっていいんじゃないかな。

とにかく、78年のA級戦犯の合祀後、ほどなくして態度を硬化させた中国。
事あるごとに日本の靖国参拝に非難を浴びせてくる。
裏には政治的理由や、外交カードとしての一面もはらんでいるはずだけど、事実、ここまで態度を硬化してくると日本としても放っておくわけにいかない。

そこで噴出した議論が「A級戦犯分祀論」。
つまり、中国の批判をかわすために、靖国神社に祀られている戦争犯罪人、A級戦犯14人だけ、別の場所に移動させようというもの。
そうすれば、中国を侵略した首謀者を参拝せずに、純粋に国のために斃れていった人だけを参拝できるから。
これに案に対して、靖国神社側は猛反対。当たり前といえば当たり前。
靖国神社の言い分は次の通り。

「本来、教義・経典を持たない神道では、信仰上の神霊観念として諸説ありますが、昔より、御分霊をいただいて別の神社にお祀りすることはあります。しかし、たとえ分霊されても、元の神霊も分霊した神霊も、夫々全神格を有しています。
靖国神社は二百四十六万六千余の神霊をお祀り申し上げておりますが、その中から一つの神霊を分霊したとしても元の神霊は存在しています。
このような神霊観念は、日本人の伝統信仰に基づくものであって、仏式においても、本家・分家の仏壇に祀る位牌と、遺骨の納められている墓での供養があることでもご理解願えると存じます。
神道における合祀祭はもっとも重儀な神事であり、一旦お祀り申し上げた個々の神霊の全神格をお還しすることはありえません。」

簡単に言い換えるとつまり、分祀ってのは神様の御霊を別の場所にも同じように祀ることですよ。お墓と仏壇があるように。
だから260万の英霊の御霊の中から、東条英機大将ら14名の魂だけ抜き出して別の場所に移すなどできませんよ、と。
分祀をするってことは、東条大将らA級戦犯14名(靖国側は昭和殉教者と呼んでいる)御霊もくっついていきますよ、という見解ですね。
それもそのはず。
A級戦犯14人と合祀したってことは、靖国神社としては、彼らも「国のために斃れていった英霊」であり、戦争犯罪人ではないって見解だもの。

とにかくまあ、靖国側が分祀なんて出来ないと主張するのは当たり前だと思います、僕も。
仮に政府が非宗教法人の国立追悼施設の建設を行って、靖国神社や、戦没者のご遺族、さらには国民の同意が得られたと仮定しても、さあ、引越ししてくださいと言ったところで、14名の霊が、はい、わかりましたといって引越ししてくれるはずもない。
この分祀論ってのは、亡くなった人の魂を、後世の人間の一方的な都合で整理しようっていう、ちょっと信じられない考えなんじゃないかな。

あまり表には出てこないけど、中国が靖国問題に強い懸念と反発を示すようになったのは、某新聞社の報道によるところが大きいとも言われてる。
現に、78年の合祀以後も大平、鈴木、中曽根元首相が合わせて20回の靖国参拝を行っているけど、中国も韓国も大きく注目した様子がない。
けれど85年(昭和60年)、中曽根元首相が戦後政治の総決算として公式参拝を表明するや否や、某マスコミが痛烈に批判を始め、同時に中国、韓国などの反発が予想されると一大キャンペーンを張った。
そのせいだ、とは僕には言い切れないけど、8月10日付けで中国人民日報が「不快感」を表明、ついには8月14日、中国が公式に参拝の反対を表明。
つまり、対中国を交えた靖国問題というのは、85年の中曽根参拝が機だと言っていい。

それまで中国は靖国神社のことなど知らなかった、だからそれをわざわざ教え、火をつけた某新聞社が悪い。
逆にの立場に立てば、日本が中国を侵略したのは歴然たる事実だから、戦後40年経って、中国が靖国神社を知り非難を浴びせてきたのは当然だ、むしろ遅すぎたぐらいだと。
前者の方は、言論の自由の上に成り立っているし、後者の方は、中国の国民感情を憂慮し、さらには外交を有利に運ぶ中国政府の立場から言えば当然かもしれない。

政教分離とA級戦犯の合祀問題。
中国が怒るから参拝はやめなさい。いや、中国の批判は日本に対する内政干渉だ。
分祀など神道の教義上、不可能だ、それは宗教弾圧でしかない。
とにかく、「慰霊」「追悼」といった行為が宗教的観念であり、無宗教での「慰霊」や「追悼」は不可能だ。
そもそも、参拝する、しない、分祀する、しないを論じること自体、政府が特定の宗教法人に介入することであり、政教分離に反する、など、様々な議論が行われてきてる。

とにかくとてつもなく根深い。
たまに、首相の靖国参拝が民事裁判に上がってくるけど、裁判所も基本的には、この問題への明確な言及は避ける。
違憲の可能性がありますよ、という含みは持たせながらではあるけれど。
で、昨年の9月、大阪高裁で明確な違憲判決が出た。
「総理大臣の職務としてなされたものと認めるのが相当」と。
小泉さんとしてはさぞかし悔しかったんじゃないかな。
国のため、私たちを守るために斃れていった人たちを、国の代表として心を込めて堂々と参拝して、それで憲法違反なんだもの。
現総理の安倍さんは賢いというかずるいというか、靖国に行く、行かないとは明確に言及してない。
実際行ってるけれど、朝の早い時間にささっと参拝を済ませちゃう。
中国・韓国に対して微妙な立場を堅持しつつ、戦没者の遺族に対しても微妙な立場を見せてる。
もちろん、一個人として靖国に参拝するのは何ら問題はないけれど、やっぱり総理大臣ともなると、そうもいかない。
各方面にそれぞれ配慮しなきゃならないから。
その点、中国の反発を正面から受けてでも、8月15日参拝を強行した小泉さんは、信念を貫いた点で、僕はとっても誇りに思う。
(後の安倍さんはちょっとかわいそうだけど)
まあ、それならば就任後、すぐに実行し、5年間とも8月15日参拝を実現して欲しかったなとも思うけれど。

僕は今年、8月15日に靖国神社を参拝してきました。
そこで強く感じたのは、A級戦犯や政教分離といった政治的問題を解決するのは難しいけれど、決して妥協せず諦めず、信念を持って取り組んで欲しいと。
大平元首相の言葉を借りれば、大東亜戦争やA級戦犯への判断は、いずれ歴史がいたすであろう、と。
いい言葉だけれど、だからといって今を生きる私たちは何もせず、何も考えず、中国や韓国の顔色だけを伺うのではあまりに悲しい。
靖国問題を論じる上で何よりも大切なことは、靖国神社という場所には、日本の神話と伝統に生きる神様が祀られているのではなく、私たちを愛し、私たちを守ろうとして斃れていった260万の英霊が祀られているという事実。
僕たちの血の一部は、彼らの涙、叫び、想いで出来ているんだもの。

志半ばで戦場に散っていった人々の想いをしっかりと受け止め、受け継ぎ、目を背けることなくしっかりと靖国問題に向き合うこと、考えること、そして生きること。
それが、今を生きる僕らに与えられた使命なんじゃないかな。
02:08  |  コラム  |  TB(0)  |  EDIT  |  Top↑

2006.10.04 (Wed)

本屋な日

歳を重ねるごとに大抵の人は知識を希求していくものだけれど、僕の場合も例外なく、ここ数年、特に本を愛するようになった。
昔はよく一人でゲームセンターに行って格闘ゲームに興じたりもしたけれど、今じゃあ考えられない。

とにかく、どんな本が欲しいって訳じゃなく、ふと数週間ごとに行きたくなる。
という訳で、今日は久しぶりの本屋の日
今日は昼過ぎに近鉄プラッツ内の朝堂書店へ。で、結局、家に帰ってきたのが20時過ぎ。
なんとまあ、6時間近くも本屋にいた計算。

6時間も何を読んでいたかっていうと、全部、太平洋戦争の関連書籍。
ブログ内でも度々触れてきたと思うのだけれど、僕は戦争から多くのものを学んだし、沢山のものを吸収してきた。
おそらく、僕の部屋に乱雑に積み重ねられてる書籍の中で、音楽関係に次いで多いんじゃないかな。

何故、あんな無残で不条理な戦争に突き進んでいったのか?
何故、それを止めることができなかったのか?
何故、三百万を超える人が死ななければならなかったのか?

そして何より、玉砕・特攻していったあまたの若者が、果たしてどのような思いを抱いて、敵に突っ込んでいったのか。
そういった想いを抱く度に、僕は彼らのことが知りたくなる。
彼らが遺したかった言葉、想いを、戦後に生きる僕らがしっかりと受け止め、色褪せないように保存し伝えていかなければならないっていう強い信念に突き動かされる。

玉砕というのは、敵に包囲され逃げ場を失った兵隊が、降伏を拒み、意識的に敵の銃弾、砲弾に身をさらすことで、主に東南アジアの島々で起こったのね。
日本軍てのはちょっと特殊な軍隊で、何がってまず降伏を固く禁じてた。
生きて辱めを受けずっていう日本古来からの侍魂をそのまま踏襲した軍隊。だから追い詰められたら死ぬしかなかった。
本人の意思とは無関係にね。

「総攻撃に参加できない重病者には、現在の我々の状況を知らせ、将来を語り、各部隊長の面前で自決させるよう指示されたが、各部隊長は自決を口にしないことをあらかじめ申し合わせ、負傷者を枕元に見舞い、一日も早く全快するように述べて手榴弾を一個ずつ渡した。重傷者は手榴弾を受け取り、急に何かを思い出したごとく、今にも消えようとする小さなローソクの光の中に、両頬を伝ってとめどなく湧き出る涙と、ただうちうなずく顔に決心の色が濃く浮かんでいた。」
(戦史叢書「中部太平洋陸軍作戦」<2>より)

「私と共に山際を進む者約千名。小銃を持たぬ兵もいる。この突撃は、はじめからその効果を期待しない突撃だ。世によく”万歳突撃”というが、そんな浅薄な意味のものではない。アメリカ側では”狂気”だというが、むしろその方が近い。しかし、病的な狂気ではない。十分に己をコントロールして、誰からも強いられたものではない。「狂気のごとく見える本心」からの行動である。したがって突撃前の姿勢も大きい。敵との距離が一万五千メートルにせまっても誰も伏せはしない。アメリカ側でも、この戦闘の基本動作以前の突撃に面食らったのか、たちまち今までの静寂を破って赤、白、緑の曳光弾とともに機関銃を雨あられと撃ち込んできた。」
(平櫛孝「第四十三師団サイパン玉砕記」)より

こうして生還の見込みのない突撃で死んでいった人が、今、手元にある資料でざっとまとめて次の通り。

アッツ島 約2,600人(ほぼ全員戦死)
マキン・タワラ環礁 約5,000人(ほぼ全員戦死)
クェゼリン環礁 約5,000人(ほぼ全員戦死)
サイパン島 約43,000人のうち41,000人強戦死。
グアム島 19,627人のうち18,376人戦死。
テニアン島 約8,000人のうちアメリカ軍上陸の際の戦闘で約5,000人が戦死。
       残存兵はゲリラ戦を展開。戦後収容されたのは僅かに61人。
ビアク島 約13,000人のうち約12,500人が戦死。
ペリリュー島 約6,500人のうち約6,450人が戦死。
アンガウル島 約1,200人のうち約1,150人が戦死。
硫黄島 約2,1000人のうち約20,000人が戦死。
拉孟 約1,200人(ほぼ全員戦死)
騰越 約2,000人(ほぼ全員戦死)

集計すると、玉砕による戦没者だけで、約117,800人。
つまり12万人もの人が、手榴弾を抱え自決したり、敵弾の中に突撃していったことになる。
ちょっと言葉が見つからない。
でも見つからないけど、見つけなきゃならないし、伝えなきゃならない。
戦史を紐解いて彼らの想いを知れば知るほど、僕は彼らに強く背中を押されているような気がする。

てなことを6時間ずーっと考えながら本屋さんで過ごした一日でした。
01:16  |  コラム  |  TB(0)  |  EDIT  |  Top↑

2006.08.15 (Tue)

終戦記念日に寄せて2006

人でごった返す九段坂を、汗を拭うことも忘れ必死の思いで登りきる。
そこで大きく一息つき、靖国神社と書かれた石柱ごしに空を眺めると、それまで重く空気を携えて暗く閉ざされていた空が、まるで僕の訪れを三十一年もの長きに渡り待ち焦がれていたかのようにさっと開ける。
煌々と照りつける太陽が姿を現し、きっとあの時もそうであったであろう、僕の体から水分も、歩く勇気も奪い去っていくかのよう思われてならない。
彼らはその太陽の下でありったけの汗と血と涙を捧げ散華し、ここ靖国の柱となったが、僕は今こうして生きてこの鳥居をくぐる。
あれから六十一年の月日が流れた。

-----------------------------------------------------------------
日本国民が玉音に耳を傾けたあの日から今日でちょうど61年目。
ようやく僕は、念願だった終戦記念日の靖国神社に立つことができました。

僕がまだ二十歳だった頃、ちょうど戦後50周年を迎え、新聞やテレビでその言葉大きく報道されていたことが記憶に新しいのに、あれからもう11年。
今や戦争を知る世代の人々は少なくなってきました。

ある時ね、レッスン中にふと戦争の話になったの。
生徒は高校生の女の子なんだけどね、こんな風に話してた。
「戦争のこととか、うちよう知らんもん。おじいちゃんが生きてた時、何かある度に戦争、戦争ってうるさかったのは覚えてるけどどぉー。」

仕方ないといえば仕方ないけれど、とても悲しい。
だから僕は普段レッスンで怒るより、ずっと厳しく怒った。
「おじいちゃんが戦争に行ったのは、一体誰のためだったの?
そして250万とも言われる戦争で死んでいった人々は、一体何のために、誰のために死んでいったの?
天皇陛下のため、皇国のためと言うけれど、その皇国の向こうには何があるの?
間違いなく君や僕や、これから先、この国に生まれ生きていく未来の人たちのためだったんじゃないの?
彼らが戦争に行き、そこで死んでしまったのは、子孫である僕らを守り、生かし導くために、自らの命を賭して戦い、そして散っていったんじゃないの?
僕らのためじゃなかったの?」
それを聞いて彼女はうつむいたままだった。
僕は少し安心した。

靖国神社はほんとにすごい人出だった。
今日読んだ新聞によると、過去最高の25万人の参拝客が訪れたらしいですね。
もちろん小泉効果もあってのことだろうけど、でも、参道を歩きながら少し嬉しかった。
何故って、これだけの人がまだ戦争の記憶を忘れずに、私たちのために死んでいった多くの人々に思いを馳せているのだもの。

参道を歩いていると様々な人に出会う。
例えば、午前中の小泉さんの参拝を評価する団体が演説をしてる。
かと思えば、反対側には「小泉参拝断固反対」って横断幕を掲げる団体が演説を行っていたりする。
でね、そのまま通りすぎようとしたら、双方の団体の若者、20代後半ぐらいかなぁ、言い争いを始めたのね。
喧嘩はよくないけれど、こうやって戦争について、私たちの今あるべき姿について熱く語れることは素晴らしいと思った。
これが本来のあるべき姿なんだろうなって。
戦争について、戦争で死んでいった人々に対して「考える・想う」ことをやめないことが一番大切なんだって。

去年もそうしたように、今年も戦争で死んでいった若者の最後の手紙をいくつか引用しておきますね。
今の20歳の若者に、果たしてこんな文章が書けるだろうか。
いや、31歳になった僕にだってこんな文章は書けない。
三島由紀夫が自殺の一週間前、英霊の残した遺書を読んで「俺にはこんな文章は書けない。俺は命を賭けて文章を書いていない」と号泣した話は去年もしたけれど、本当の意味で、命を賭して書かれた文章を皆さんにも是非目を通していただけたらなと思います。

お母さん さよなら

海軍大尉 林市造 命 昭和20年4月12日
南西諸島方面にて戦死
福岡県宗像郡赤間町出身
京都帝國大學 海軍第14期飛行科予備学生23歳

一足さきに天国に参ります。
天国に入れてもらえますかしら。
お母さん祈つて下さい。
お母さんが来られるところへ行かなくては、たまらないですから。
お母さん。さよなら。

林市造さんの母マツヘさんの手記
泰平の世なら市造は、嫁や子供があつて、おだやかな家庭の主人になつていたでしょう。
けれども、国をあげて戦つていたときに生まれ合わせたのが運命です。
日本に生まれた以上、 その母国が、危うくなつた時、腕をこまねいて、見ていることは、できません。
そのときは、 やはり出られる者が出て防がねばなりません。  

 一億の人を救ふはこの道と    
  母をもおきて君は征きけり


(靖国神社英霊の言の葉集より)



今ぞペンを捨て銃を執る

陸軍曹長 池田雄 命
昭和20年7月2日
比島中部ルソン島にて戦死
山口県酒田市東中の口町出身 23歳
昭和18年9月26日

学徒出陣する時は終に来た 徴兵猶予の停止
文科系系統の学校の閉鎖 来るべきものが終に来たのだ
吾等はペンを捨て学業中ばにして銃を持つ
愛する祖國のために戦わねばならぬ
深海の底のやうな静けさだ
さうだ総ての過去を清算して真の逞き日本男児となり
永遠の将来に生きねばならない
自分一個の肉体は一時的かも知らないが
自分の霊魂は人類平和を目標とする
正しき民族精神の中に永遠に生きることであらう

 國破れて学問なし 美しき祖國の山河なし
 吾等学徒の立つべきときは今ぞ!!

さうして敵と生死の一戦をまじえ断じてゝて勝たねばならぬ
死ぬ前に心残りなく故郷の空に山に河に海に遊びまはつてよく見て居かう
俺の苦しいにつけ楽しいにつけ 黙示のうちに慰め励ましてくれた大自然だ
俺を清く正しく大きく育て上げてくれた
美しきあの山 あの河を!!

(後畧・靖国神社英霊の言の葉集より)
23:51  |  コラム  |  TB(0)  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。