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2007.11.22 (Thu)

高台寺に見る美の本質

先日、高台寺へお邪魔してきた折、やっぱり日本の美っていいなぁーとあらためて思ったので、久しぶりにコラムとしてまとめてみました。



晩秋。
ここ京都が、一年のうちでもっとも趣ある佇まいを見せる季節。

人によって好きな季節はそれぞれだろうけど、僕は断然秋が好き。
静かな中に一抹の侘しさが内包されていて、あまり活発でない僕にとってはまさにベスト。
長い冬を前にした一瞬の煌きっていうのかな。
一日で例えると、夕日が沈む直前の、あの切ないまでの美しさってのがまさに秋でしょ。
どうも、そういったどこか「暗さ」のある美しさに惹かれるんだなぁ。
のんびり鴨川のほとりに腰掛けて空を眺めたり、お気に入りの本を持って稲荷大社の境内の中、僕の秘密基地で半日過ごしたり、そういうスローな時間の流れを楽しめるのも、まさに秋ならではの醍醐味。

さて、秋と言えば言わずもがな紅葉の季節。
これを抜きで秋を語ることなんてできないわけで、早速行って参りました。

例年、恒例行事のようにお邪魔する場所はいくつかあるけれど、その中の一つに高台寺がある。
熱心な歴史ファンにとったら、秀吉の正室ねね(北政所)の墓所として有名なこのお寺。
すぐそばにある清水寺ほど規模は大きくないけれど、境内にある臥龍池(がりょうち)に映り込む紅葉の赤が格別で、まさに異世界への扉なんて洒落た言葉がしっくりくる。
僕がここを訪れたのは確か大学生の時だったけれど、その時受けた衝撃は今でも鮮明に覚えてる。
「庭」っていうごく限られた空間の中に、こんなスケールの大きな美を詰め込めるんだ!
生意気にもそんな風に感じたっけ。
もしかすると、もっと漠然とした感動だっかもしれない。
でもその衝撃が、後の僕の音楽観に大きな影響を与えることになったのね。

でも何故、僅か十数平方メートルの空間に、無限を感じらせる宇宙を作り出すことができるんだろう。

僕が学生時代を過ごしたウィーンの街にも「美しい」と言われるものはたくさんある。
例えばシェーンブルン宮殿。
ハプスブルグ家の夏の離宮、つまり別荘としてウィーン郊外に建てられた広大な宮殿。
ハプスブルグ家?なにそれ?って方には、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリザベートって名前を出した方が分かりやすいかな。
とにかくこの人たちは、時代は違えどもみんなハプスブルグ家の人々。

さて、このシェーンブルン宮殿、なにがすごいかってまずとてつもなく広い。
まぁとにかく広い。
宮殿の建物部分だけを見ても幅180m。部屋数は1,441室。
建物は全面、淡い黄色に塗られていてとにかくよく目立つ。
この黄色、マリア・テレジア・イエローと呼ばれていて、一般のガイドブックなんかには彼女が好んだ色だからって説明が成されている。
けれど事実は少し違っていて、本当は金色に塗りたかったけれど、財政的な理由からそれが叶わず致し方なく金色に近い黄色を選んだってのが正解。
建物の前後には広大な庭園が広がっていて、よく手入れされ造形された植木がアーチ状に連なり、壁のように四角く整備された植木は、文字通り壁の役割として庭園内を機能的に区切っている。
宮殿内は、まさに映画「マリー・アントワネット」の世界そのもので、豪華絢爛な装飾品、きわめて希少価値の高い家具や食器、女性ならば一度は憧れるであろう「お姫様」の世界。
大きなパニエとかつらで盛装した王族や貴族が、たくさんの召使を連れて真っ赤な絨毯の上と粛々としながらも凛とした面持ちで歩いてくる映像が、生き生きと目に浮かぶ。

ちなみにここシェーンブルン宮殿、オーストリアの中ではウィーン国立歌劇場と並んで、もっとも重要な観光資源で、年間入場者数は670万人にも達する。
つまりはドル箱。
もちろん僕も幾度となく訪れたし、天気のいい日は庭園の一番端、グロリエッテと呼ばれる丘の上で楽譜を広げて一日過ごしたこともある。

けれども、このシェーンブルン宮殿、僕はいまいち好きになれない。
こんなにも重厚な歴史と事件を見つめてきた遺産だし、年間700万人近くの人が訪れる名所なんだけれど、どうしてかこの場所を心底美しいと思うことができないの。
疲れる。
僕が日本人であるが故、もしくは性格上の問題というのも多分にあると思うけれど、どうもそれだけで切り捨ててしまうにはどこかしこりが残る感がある。
それに比べ、高台寺の僅かなスペースに作り出された美を何十倍にも愛しく思うのは何故だろう。

広大な敷地、いやキャンパスに贅の限りを尽くして描かれたシェーンブルン絵画。
僅かなスペースに、そこにあったもの、ありきたりのものだけで書き付けられた高台寺絵巻。

これら二者の決定的な違い。
それはすなわち「自然を殺しているか生かしているか」に尽きる。
ごく単純なこの言葉が、すべての美に於いて最重要なキーワードであり、同時に計り知れない深さと意味を持ち合わせていることに気が付いたのは、僕がウィーンを離れてからずっと後のこと。

例えば、音楽にはリタルダンドという奏法がある。
学校の音楽の授業では「だんだん遅く」と習うこの奏法、曲が終わる少し前や、一つの段落が終わって、新しい部分に入る前の橋渡しとして頻繁に使われる。
よく似たものは他にもたくさんあって、クレッシェンド(だんだん強く)、アッチェレランド(だんだん速く)なんかも頻繁に使われる。
もう少し立ち入って触れれば、だんだん遅くのこの「だんだん」ってのも様々で、ほぼ急激に近い具合で速度を落とすこともあれば、逆にほとんど分からないほどに速度を落としていくこともある。
けれども、どういった場合に使われようとも、これらの奏法には絶対に忘れてはいけない必須条件があって、それがつまり「自然」であることだと僕は思ってる。
自然であると言うと、とっても漠然としていて分かりにくいのだけれど、こういうと分かりやすいかな。

「物理的に自然であること」

自転車で道を走っているとする。
急な下り坂ではスピードがあがり、平坦な道では惰性で走る。
緩い登り坂ではペダルを少し強く踏み込んで、急な登りでは思いっきりペダルを踏み込む。
頂上手前で自転車は止まりそうになる。つまり速度が落ちる。
けれどペダルは渾身の力で踏み込んでいる。
頂上に到達すると突然視界が開けて、眼下には美しい景色が広がる。

そういった物理的な運動、それに必要なエネルギーというものを、すべてのクレッシェンドやリタルダンドに投影して初めて、そこに自然で美しい音楽の流れというものが出来上がる。
歌う際の呼吸には、まるで寄せては返す波のような自然の流れが必要だと僕はよく教えてる。
自然に無理なく吸った息を、決して加工することなく、止めることなく自然な流れに則って吐き出す。

地球の自転、潮の満ち引き、ものが落ちる、転がる、これら重力に支配されたものを始めとして、生まれる、死んでいく、愛する、感動するといった心と体に課せられた運命に至るまで、そういった自然の流れを決して殺さない、逆らわない。
自然を感じ、自然と共に生き、自然を自ら生み出すものに注意深く、さらには畏怖の念を持って投影させていく。

人間が自らの手で半ば強引に作り出そうとした美。
そして、あるがままを生かし、自然に逆らわず生み出された美。

美というものが相対的である以上、どちらが正しい、どちらが本当の美だと断ずること決してできないし、僕自身、高層ビルの屋上から眺める夜景や、これからの季節だと街の至るところで見るであろう、クリスマスのイルミネーションなんかも綺麗だなーって思う。
けれども、美の本質に迫ろうとすればするほど、人工的な美には常に空虚さが見え隠れするようになり、高台寺の臥龍池に映り込む紅葉のように、素朴であっても自然なままで生み出された美を希求するようになるのは、果たして僕だけかしら。

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