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2006.10.16 (Mon)

12の練習曲作品10 第12番ハ短調「革命」/F.ショパン

12の練習曲作品10 第12番ハ短調「革命」/F.ショパン
ETÙDEN Op.10-12 c-mall/F.F.Chopin

ピアノ/辰巳直弘

試聴URL
http://piano.adam.ne.jp/asx/fc-etu10-12_t.asx



ショパンの生まれたポーランドって国は、1320年に国家統一をして文化的にも経済的にも栄えてきた国だったんですが、16世紀末になって、近隣諸国との間との絶え間ない戦争に巻き込まれていったんですね。
で、次第に隣接するロシア、プロシア、オーストリアに侵食され、1772年には第一次分割によって領土の三分の一を支配されてしまう。
1793年の第二次分割、1795年の第三分割ではポーランドのほとんどすべてが三国(ロシア、プロシア、オーストリア)の支配下に入ってしまったんです。
つまりポーランドって国が地図上からなくなっちゃった。

そのため、多くのポーランド人が主にフランスに亡命し、祖国ポーランドの独立回復への願望をフランスとナポレオンに託してたんですね。
当時、フランスはポーランド人にとっては希望の象徴だったんですね。
つまり三国干渉に対抗して、ポーランドの独立を助けるのはフランス以外にはないと考えていたんです。
そして、そのフランスを率いるナポレオンは、プロシアを破り、1807年支配下だった領域にワルシャワ大公国を築き、フランス風の憲法を発布しました。
この比較的平穏な時代にショパンは生を受けました。

ところが、ナポレオンが敗北しワルシャワ大公国は消滅、1815の年ウィーン会議では、また三国間に領土を分割され、ショパンの生まれたワルシャワはロシア支配地区の首府になっちゃった。
また国がなくなっちゃった。ロシアに併合されちゃった。
だからショパンは、ポーランド人としての意識、愛国心を持って成長し、子供の頃から他のポーランド人と同じく、亡国の民としての悲しみを味わってきたんですね。
そんな中、ポーランド人の反ロシア感情は、時とともに高まっていき、それに対しロシア側は検閲を強化、スパイ網をはりめぐらしていった。

1830年頃、ワルシャワには革命的な気運が漲ってきます。
ポーランドの若い知識人や革命家の友人がいたショパンは、家族や友人の希望もありウィーンへ向けて旅立つ準備を進めていました。
将来のある若い音楽家を革命の犠牲にする訳にはいかないという配慮だったのかもしれませんね。

国を出て無事ウィーンに着いたものの、ここでは、新進ピアニスト タールベルクが新しいスターとして人気を集めていました。
ショパンを概に知っていた聴衆は、彼には興味を失っていたんです。
そんな失意の日々に追い討ちをかけるように、「ワルシャワ陥落」というニュースが届きます。
革命は失敗、革命政府は降伏しワルシャワは完全にロシア軍の手中に落ちてしまったのです。

しかしそれに対して、頼みの綱のフランス政府は傍観。ショパンは絶望のどん底につき落とされ、激しい怒りをノートに書き殴っています。
練習曲の「革命」が生まれたのは、まさにこの時でした。
幼少から、祖国への強い想いを抱いてきたショパンにとっては、革命の失敗はさぞ辛い出来事だったでしょうね。

激しい怒りを燃やすかのような左手の律動、その想いを叩きつける右手の旋律。
後に練習曲として出版されますが、この曲も例にもれず、練習曲の域を超越したピアノの詩人ならではの素晴らしい作品です。
◆               ◆

ちなみに、僕を音楽の道に引き込んだ曲の一つ。
小学校5年生だったかな、ピアノを始めて間もない頃、まだ月光ソナタとエリーゼのためにぐらいしか知らなかったのに、テレビで突然この曲が流れてきたんです。
ショパンコンクールでブーニンが弾いてたんですね。
で、「なんだ!このカッコいい曲は!世の中にこんな音楽があるんだ!」って思って、すぐさま楽譜を入手。
先生のレッスンではまだツェルニーの30番を弾いてるレベルなのに、こっそり革命のエチュードの譜読みを進め、朝起きては革命、学校から帰っては革命、みたいな日々を送った、そんな思い出の一曲です。
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