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2009.08.15 (Sat)

終戦記念日に寄せて2009

うだるような暑さの中、祖父母の墓参りを済ませ、山のふもとに雄大な琵琶湖を望みながら頬をかすめる風に心地いいと感じた瞬間、ふと思い出す。

ここに眠っているのは父方の祖父母であり、ぼくの名字のルーツとなった家でもある。
ぼくの父と母は離婚しており、今では父方の親戚とはすっかり縁遠くなってしまったが、それでもぼくの中に流れる血はこの場所で眠る祖父母から確かに受け継いだものでもあり、彼らが生きなければ当然ぼくも生まれてはいなかった。
奇しくも今年の夏は、ぼくにとって音楽スタジオを構え転機となる夏でもあり、その看板の中に祖父母から受け継いだ名字が踊っている。
今年の墓参りはいつもより念入りにしておこう、そう考えながら、普段絶対に吸うことのない古い銘柄のタバコに火を付けた。

ぼくの祖父は終戦時は満州にいたそうだ。
「そうだ」という伝聞で書いたのは、祖父の生前、ぼくは戦争についての知識も興味も何一つ持っておらず、また祖父の方から話を聞かされることもなかったからだ。
祖母からは「おじいちゃんは昔、鉄砲で撃たれてな、弾の痕が残っとるんよ」という話は聞かされてたことはあるが、実際に見たことはないし、鉄砲で撃たれたなどという非現実的な話は、ぼくにとってはまったく関係のない世界、映画のスクリーンの中での架空の世界にしか思えなかった。
中学の理科の先生がかなりの年配の方で、授業の合間によくシベリア抑留時の話を聞かせてもらっていたが、シベリアという地と満州という地がぼくの中で結びついたのは、中学を卒業してずっと後になってからだ。

祖父も理科の先生も、命のあるうちに8月15日を迎えた。
ぼくが幼い頃我侭を通そうとすると、母が決まって口にする文句が「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という意味の分からない呪文のような言葉であったという話は以前にもしたことと思う。
ぼくが意味を尋ねると、母は少しむっとした様子で「我慢しなさいってこと!」と一蹴していたが、どういうわけがこの呪文のような言葉は、その後ずっとぼくの心の中である一定の位置に収まっており、いや、鎮座していたという方が正しいであろうか、よく分からないけれど、我慢しなければならないことがあるんだという子供ながらの精一杯の哲学となっていた。




今から64年前の今日、日本は戦争に負けた。

それから遡ること1週間、ヒロシマとナガサキに人類史上初めてとなる原子爆弾が投下され、一瞬にして22万人近い無実の尊い命が奪われた。
ほんの僅かながら核物理学にクビを突っ込んだだけのぼくにでも、この兵器が如何に残虐で恐ろしいものであるかは理解できるし、アメリカの世論がいかに「原爆は戦争終結に必要なものであった」という風潮に傾こうと、到底許しがたい人類史上最悪のホロコーストであるとぼくは思っている。
村山元首相の談話を借りるならば、先の戦争は我が国の国策の誤りであり侵略戦争であったとなるし、またこの見解は、現在の日本政府の公式な見解ともなっている。
中国や東南アジアを始めとして、周辺諸国の国民の方々が、今なお日本に対して強い反日感情を抱いていることはぼくを始め皆さんもよくご存知であろうし、そうした現状を引き起こした先の戦争については日本国民として申し訳ない気持ちで一杯でもある。
しかしながら、炎と瓦礫の中で死んでいった22万もの罪無き人々、敵艦に体当たりしていった多くの若者、敵の銃弾の雨の中に万歳しながら突撃していった死んでいった人々、そしてあの戦争で命を落としていった250万の人々が忘れられていいはずもない。

ぼくがこうして毎年8月15日にしつこいぐらいに手記を残すのは、いくつかわけがある。
一つはもちろん、今の平和の礎として命を落としていった人々を忘れないために、そしてもう一つは、この平和な社会で生きることを当たり前と思わないように自分自身を戒めるためだ。
そしてもう一つ、今を苦しみながら、悩みながら生きている人に「生かされている」ことを実感して欲しいがためだ。

正直に話すと、ぼくと戦争との初めての出会いはコンピュータゲームのシュミレーションゲームであった。
大和や武蔵といった戦艦や、零戦を操りながら敵をやっつけ、領土を拡大していく。
しかしゲームの中であるが故、自分は痛みも悲しみも感じず、誰も死なず、誰も殺さない。
ただ敵を撃破し覇を唱えることを目標とし、敵艦を撃沈していく様はまさに爽快の一言に尽きる。
けれど、そうして遊んでいるうちに実際の大和はどういうものであったか、本当の零戦の戦いとはどのようなものであったかが知りたくなり、少しずつ戦史を紐解いていった。
そこでぼくが目の当たりにしたものは、自分の想像を遥かに超えた悲しくも理不尽な物語りの数々であった。

幼い子と妻を残し敵艦に体当たりしていった人、降伏を禁じられ手榴弾を抱いて自決していった人々、ペンを銃に持ち替え志半ばで戦場に散っていった多くの若者。
突然の閃光に体中の皮膚が焼けただれ、水を求めてのたうち回る人々、焼夷弾による絨毯爆撃によって家も家族も焼かれた人々。
彼ら、彼女らは一体なんのために死んでいったのか。そして何故死ななければならなかったのか。
それを今一度問い、自分の中で答えをかみ締める日、それがぼくにとっての8月15日でもある。

我々に課された使命は、今を生き抜くことであるとぼくは思っている。
齢15にして戦場に散っていった少年は、どれほど生きたかったことだろう。
妻のお腹にまだ見ぬ子を残して銃弾の中に突撃していった父は、どれほど子供の顔を見たかったことであろう。

確かに今の社会も平穏無事というわけではないし、今を生きる我々にとっても毎日は戦いの様相でもある。
悩むことばかり、次から次へと押し寄せ、孤独を感じ、未来が見えず、今やっていることに自信が持てないことが多々あると思う。
けれど、今ぼくたちはそれでも生きている。
いや、この国を憂い、未来を案じ、命をかけて守ろうとした250万の人々の血と涙の上にぼくたちは生かされている。

お父さんとお母さんから生まれてきたぼくら。
そのお父さんとお母さんを守るために戦ったおじいちゃん、おばあちゃん、ひいおじいちゃんやひいおばあちゃん。
この国の平和は偉大な先人の血と涙を想いを元素として成り立ち、その元素からぼくらは成り立っている。
今の時代、焼夷弾が降ってくることも、空襲警報に怯えることもないけれど、せめて1年のうちこの日だけは、今日だけは、ぼくたちのために命を賭けて戦い、そして散っていった英霊の想いに、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と語られる玉音放送を聴きながらひっそりと耳を傾けたいと思う。


鉄血勤皇隊 豊里陳雄命
昭和二十五年五月二十八日
沖縄本島兼城村第六十二野戦病院にて戦傷死
沖縄県立第一中学校三年 十五歳


母上様に告ぐ

 お母さん、首里の里もたうとう戰の庭と化しまして、自分等も鉄血勤皇隊をして軍服姿に身を固め、英米撃滅に邁進したのであります。
 沖縄の戰場も、何時かは勝ち戰の時期が来るのですから、母上様には御體を大切にされまして、勝ち戰を待つて居て下さい。
 自分の子とは、如何なる時にも御心配しないで下さい。そして、小生を御國の為に働かして下さい。自分も良き死場所を見つけて、御國に御奉公するつもりです。

お母さん、自分の働きぶりを見てください。
九段の御社で、母上様さやうなら。
散るべきときに散つてこそ
男と生まれし甲斐はありけり

豊里陳雄(英霊の言乃葉集より)


海軍少佐 宮澤幸光命
神風特別攻撃隊代十九金剛隊
昭和二十年一月六日比島にて戦死
北海道第二師範学校
海軍第十三期飛行科予備学生
北海道桧山郡江差町出身 二十三歳


お父上様、お母上様、益々御達者でお暮らしのことと存じます。幸光は闘魂いよゝ元気旺盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖國で二十四歳を迎へる事にしました。靖國神社の餅は大きいですからね。同封の写真は猛訓練時、下中尉に写して戴いたのです。眼光を見てください。この拳を見てください。
 父様、母様は日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前に沢山御馳走をあげてください。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の想ひ出話をするのも間近でせう。靖國神社ではまた甲板士官でもして大いに張切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知つても決して泣いてはなりません。靖國で待つてゐます。きつと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が死んでしまふ。否日本国が大変なことになる。幸光は誰にも負けずきつとやります。

(英霊の言乃葉集より)
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